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十渡 [某月某日@中国]

久しぶりに中国の話題にします。
北京の南西約90kmのところに十渡(シードゥ)風景区と呼ばれる景勝地があります。「北京の小桂林」とも言われています。風景区に近づくと、拒馬河というくねくねと曲がった川が流れています。そこで最初に渡る場所が一渡です。そして次が二渡、三渡と続き、最後が十渡です。

1999年の秋、私が北京駐在中のことです。仕事で北京を訪問したフランス人二人を、時間を見つけて十渡に連れて行きました。
たしかに、規模は小さいですが、桂林のような山が続いています。
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その山の一つに登って見ると、散歩コースとしては最高です。
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眼下には、拒馬河の流れが見え、周りの山々も良く見えます。
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川の向こう岸をみると、なんと山の上から川に向かってバンジージャンプをしています。ジャンプしてぶら下がっている人を救出(?)するために小舟が寄ってきます。
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川の周りに沢山の山がありますが、中には結構高い山もあります。このような急な階段を登って山頂付近まで行きます。ちょうど山形の山寺のような感じです。
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頂上付近にはこのようなお寺があります。
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ちょっとした散歩には、十渡は楽しいところです。

川底下村の思い出 [某月某日@中国]

北京に駐在中の1998年11月に、北京郊外にある川底下村という場所を訪れました。北京から西に約90km離れた場所にあります。車で2時間ほどのところです。ここは清の時代には北京から山西省へ向かう街道筋の宿場町として栄えていたそうですが、新しく作られた国道が別のルートを通ったので、この川底下村は完全に取り残された陸の孤島になってしまいました。今では70戸ほどの家が残っているだけです。村人は観光で生計を立てています。
この村に入るとまるでタイムスリップした感じです。清の時代の生活がそのままに時が止まっているかのようです。この村は四方が山に囲まれていて盆地の底にあります。これは山の中腹から眺めた川底下村の全景です。いかに小さな村か分かると思います。
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上の写真の右側に並んで見えている家の前に立つとこんな感じです。隣通しがくっ付いて並んでいます。
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この村には四号院作りの住居がたくさん残っています。以前のブログ「北京ノスタルジア」にも書きましたように、現在の北京の四号院は残っているものでもほとんど原型をとどめていません。ところが、この村の四号院はこのように昔のままの形をしているのです。これだけでも見応えがあります
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このような村にも文明の波は押し寄せてきていました。北京からのテレビ電波は山に遮られて届かないために、このように衛星放送受信用のパラボラアンテナがたくさんあります。
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しかし、文化大革命の遺産も色濃く残っています。現在の中国で使われている簡体字で書かれていますので、日本人には読めない漢字があります。普通の漢字で書くと「用毛沢東思想武装我們的頭脳」つまり、「毛沢東思想を用いて私たちの頭脳を武装しよう」となります。中国の近代化以前の名残です。
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この川底下村という名前は、もとからあるものではなく、もとは異なる漢字を使っていたそうです。「川」という字ではなく、下の写真の字を使っていました。
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複雑な漢字ですが、これはカマド(竃)の意味だそうです。つまり盆地の底の村がカマドの底にあるような形状から来たものと思われます。

村の中で面白いものを見つけました。壁に掲示された1998年7月の川底下村の財務状況公告です。これによれば、村の年間総収入が22,962元(当時の為替レートで約34万円)、総支出が13,080元(約20万円)です。人口200名としてもずいぶん少ない金額ですが、いまの日本の市町村の財務状況と比べるといかに健全財政であるかが分かります。
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この小さな村にキリスト教会があります。この村にしては立派な教会です。
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教会の内部も立派です。
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村人は皆親切で明るいです。物質的には恵まれていないかもしれませんが、決して不幸ではないという感じがしました。文明に毒された者からみると、景色はいいし静かだし、たまに来るにはいいけど、一生暮らすのはいやだなと感じるかもしれません。でも、一歩引いて考えると、文明が本当に人類を幸福にする方向に進んでいるのだろうか、人類にとっての幸福とは何か、という疑問が重たくのしかかってきてしまいます。そんな思い出の川底下村でした。

パンダは茶黒? [某月某日@中国]

最近上野動物園に2頭のパンダが来たのがニュースになっています。最初に日本にパンダが来たのは1972年のことでした。日中国交正常化の記念に中国から贈られました。上野動物園に来たカンカンとランランです。当時の上野動物園のパンダ舎の混み具合はたいへんなものでした。しばらく経って落ち着いた頃、子供たちを連れて上野動物園にパンダを見に行きました。空調完備の立派な獣舎で「人間の住処より贅沢だな」と思った記憶があります。

北京駐在中に北京動物園にも何度か足を運びました。ここにはたしかパンダが6-7頭いたと思います。上野動物園のような立派な獣舎はありませでした。でも、元気に動き回ってどのパンダも泥んこまみれなのです。「パンダは白黒」というイメージが変わりました。「パンダは茶黒」でした。
下の写真をご覧下さい。北京のパンダの様子です。
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上野動物園のパンダと北京動物園のパンダを比較すると、日本人と中国人の縮図を見ているようです。逞しさが違うように見えましたが、私の誤った先入観ですかね。

中国の紙幣 [某月某日@中国]

十円玉の話をしたついでに、もういちどお金の話をしましょう。中国の紙幣についてです。

日本では、切手アルバムと同様に古い紙幣のアルバムは市販されていますが、現在流通している紙幣が販売されることはありません。そんなもの誰が買うのかと思われるでしょう。ところが、中国では流通紙幣がアルバムになって販売されているのです。
これがそうです。大きさはB4サイズをもう少し長くしたような横開きのアルバムです。たしか1999年だったと思いますが、知り合いの中国人からプレゼントされました。
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最初のページには証明書が貼ってあります。その内容を紹介します。「このアルバムは1980年に中国人民銀行が発行し、現在も流通している7種類の紙幣を4枚綴りで集めたものである。10元、5元、2元、1元と5角、2角、1角の7種類である(注:1角=0.1元)。流通している紙幣を中国がアルバムにしたのは初めてである。中国長城硬幣投資有限公司が中国人民銀行発行の紙幣をアルバムにして販売することを許可されたものである。このアルバムは僅か20万部の限定された発行であることを証明する」と書いてあります。
中国の最高額紙幣は100元で、その次が50元、20元です。このアルバムの中のお札の原価は、7種類合計18.8元×4枚で75.2元ですから大きな金額ではありません。当時の為替レート(1元=約15円)で1,100円ほどです。しかし、「僅か20万部」という表現が面白いです。20万部といえばちょっとしたベストセラーですから。一冊幾らか知りませんが、3千円だとしても売り上げ6億円になります。
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その次のページから右側にこのように四枚綴りの無裁断の実際の紙幣が貼ってあり、左側にその紙幣の説明が書いてあります。当時は10元以下の紙幣には少数民族が描かれていました。
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四枚綴りの紙幣には、当然のことながらその一枚一枚に紙幣番号が刻印されています。7種類の紙幣の写真と、それぞれの4枚のうちの左上の紙幣番号を拡大して示します。なんと、同じ番号なのです。紙幣の種類が異なっているので同じ番号であっても不都合はありませんが、不思議な感じがします。
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これは、4枚の10元紙幣番号を拡大したものです。ここでも驚きがあります。普通ならば、通し番号で一つずつ番号が増えていくと思いますが、この4枚の紙幣は下5桁目の数字が4、5、6、7と増えているのです。これも不思議です。
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これらの番号から考えて、これらのお札はこのアルバム用に特別に印刷されたものです。日本で言えば日本銀行のお墨付きの紙幣ですから、決して偽札ではありません。

流通している紙幣にもビジネスチャンスを見出すというのは、中国ならではという感じです。日本も国債ばかり売っていないで、もっと他に売れるものを考えるべきではないですかね。

秧歌(ヤンガー) [某月某日@中国]

1999年5月に私の住んでいた北京のマンションで鯉のぼり祭りが行われました。私の同僚のIさんが厚木市の有志を北京に呼んで開催したものです。

この前日に、このグループに私も加えてもらって、万里の長城に鯉のぼりをひるがえして来ました。総勢20名ほどが大きな鯉のぼりをもって長城を練り歩く姿は、中国人には奇異に見えたと思います。公安が飛んできて逮捕されるのではないかと内心心配していましたが、何事もなく無事帰宅しました。

マンションの庭での鯉のぼり祭りで登場したユニークなグループを紹介します。

「秧歌(ヤンガー)」といわれる踊りのグループです。この踊りは日本の盆踊りのようなもので、中国の主に東北地方の農民が豊作を祝って踊るものです。
こんな感じの踊りです。
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音楽はチャルメラの音が主です。昔聞いた屋台のラーメン屋の懐かしい音色です。チャルメラのほかに、銅鑼、太鼓、それにシンバルの音楽に合わせ、両手に赤や黄色の小さな布あるいは扇子を持ち、左右に手を振りながら、3歩前進して1歩下がるというステップです。これが楽団です。
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でも良く見ると、どこか変なのです!
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踊り手の皆さんは女性のように見えますが、やっぱり変です!みんなスカートを穿いていますが、半分以上が男性です。
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ズボンを穿いた男性もいますが、この人(真ん中のおじさん)も何となく変です。
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アップしてみると、そうです、化粧をしています。
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このおじさんも化粧して、人形におんぶされているような格好をしていますが、人形の脚に見えるのが自前の脚です。
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いろいろな仮装をした人も混じって踊ります。
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どれが男性で、どれが女性だか分かりません。でも、そんなことはどうでもいいのです。楽しければいいのです。
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中国には秧歌のグループが沢山あって、コンテストも行われています。私の住んでいた北京でも、週末になると夕方、チャルメラの音に操られた秧歌グループが街中を練り歩く姿をよく見かけました。
秧歌に限らず、中国では集団で何か楽しいことをするのが結構盛んです。朝の公園に行くと、あちこちで太極拳をしているグループがありますし、そのほかにも気功体操や社交ダンスをしているグループも見受けます。公園ではマージャンや将棋もやっています。その周りをギャラリーがたくさん取り巻いています。日本ではこんな光景は見かけないですね。集団で遊ぶものといえば、一年に一度の盆踊りくらいでしょうかね。

オリンピック招致活動 [某月某日@中国]

2008年に北京でオリンピックが開催されました。私は1998年から2001年まで北京に駐在しました。その期間中は、オリンピックを北京で開催しようとするキャンペーン活動が活発に行われていました。その活動と日本の大阪や東京でのオリンピック開催招致運動と比較してみるとだいぶ違いがあります。その時の様子を思い出しながら、書いてみます。
2000年ごろから北京の街の中のいたる所で「北京でオリンピックを開催しよう!」というスローガンが掲げられました。オリンピックを北京で開催し、成功させようという雰囲気が醸成されていきました。その当時、対抗馬は日本の大阪でした。しかし大阪の盛り上がりの様子はほとんど聞こえて来ず、むしろ冷めているという感じしか伝わってきませんでした。
中国では国を挙げてオリンピック招致に向けた活動が活発に行われました。その極め付けは国際オリンピック委員会(IOC)が北京に調査に来たときのことです。北京には故宮を取り巻く形で当時は2環路、3環路、4環路がありました(現在は5環路、6環路まであります)。これらの環状線を繋ぐ形に放射状に道路があります。このうち空港から市街地に入ろうとすると必ず2環路や3環路を通ることになりますが、この道路の周辺にはもう50年以上も前に作られた古いアパート群が林立しています。そこで、北京市政府が取った策は、IOCの車列が通る道筋にあるアパートの外装のペンキを全て塗り替えたのです。道路を跨ぐ横断陸橋やその手すりもピカピカに塗り立てました。こうして、IOCのメンバーが乗る車の窓から見た北京の景色は、白や黄色の出来立てのマンション群のある素晴らしく美しい街並みだったのです。そのほか、見学コースに入っている建物や建造物にも同じような施策が取られました。
結果はすでにご承知の通りです。2008年に北京でめでたく開催されました。北京開催が決まったのは、2001年7月13日の夕方でした。たしか午後9時すぎだったと思います。私は駐在を終えて日本に帰国する準備をしている時でした。片付けや荷造りのために家内も来ていました。二人で夕食を済まして寛いでいると、突然マンションの下のほうから「ワーッ!」という叫び声とともに、バン、バン、バーンという凄まじい爆発音が聞こえて来ました。私と家内は、暴動でも起こったのではないかと思ってマンションの窓から恐る恐る下を見ますと、みんなで爆竹を鳴らしているのでした。北京市内では、春節の時も爆竹は禁止されています。しかし、この日は特別でした。みんなで爆竹を鳴らし、手を取り合って飛び跳ねているのです。
日本の大阪は国民の盛り上がり方の差で北京に負けたと思います。2016年のオリンピックはリオデジャネイロオに決まって、東京は負けました。2008年から2009年にかけての東京の雰囲気は、私がいた時の北京の盛り上がりのかけらもありませんでした。

北京に話を戻します。オリンピック開催が決定した次の日、北京日報の号外が配られました。
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写真の下に書いてある文章は、「1300万の北京人、13億の中国人はついに望みを実現」と書いてあります。その次の赤と青の大文字は、「北京は2008年オリンピックの開催権を獲得」と書いてあります。この文章を見て感じることがあります。2008年のオリンピック開催は自分たちが勝ち取ったものであるというニュアンスが色濃く出ていることです。あくまで、与えられたものではなく、勝ち取ったもの、戦いの成果であるという認識です。平和ボケした日本人には違和感のある表現かも知れません。

中国の切手 [某月某日@中国]

中国では、年明けになると前年に発行された記念切手のアルバムが出ます。A4版の大きさで、中をめくると、実際の切手がはさんであり、説明文が添えられています。これは2000年に発行された切手のアルバムです。
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この中から、幾つか面白いものをご紹介しましょう。これは2000年のシドニーオリンピックの記念切手です。「オリンピック」は中国語で「奥林匹克」と書きます。それはともかく、面白いのはこの切手の大きさです。十円玉と比較すれば大きさが分かりますが、ミシン目で切り取ると、縦6 cm、横9 cmあります。普通の封筒に張ったら、あて先を書く場所が無くなってしまいそうです。額面は8元(当時の為替レートで約120円)です。
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これも同じ大きさの春節(旧正月)の記念切手です。
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これは1998年のアルバムからです。九賽構がユネスコの自然遺産に登録された記念切手です。これも同じ大きさです。額面800分になっていますが、これは8元のことです(1元=10角=100分)。
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これはまた面白い切手です。中国古典文学切手ですが、右側の切手を見て下さい。なんと横幅が16 cmもあります。高さは4 cmです。日本にも「見返り美人」や「月に雁」などの細長い切手がありますが、ここまで長くはありません。これも額面800分です。
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これは有人宇宙船「神舟」の打ち上げ記念切手です。三角形の面白い形をしています。額面は80分(約12円)です。
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中国にはこんな面白い切手が沢山あります。

中国の春節 [某月某日@中国]

日本の正月に続いて、今日は中国の正月について書きます。

中国の正月(春節)は旧暦の1月1日です。今年は2月3日が旧暦1月1日です。昨年は2月14日でした。このように毎年10日ほど早くなって行きますが、閏月がある年(ほぼ3年に1回)は13ヶ月ありますので、次の年の春節は一月ほど遅くなります。このため、現在の暦の上では、春節は1月下旬から2月中旬にかけて変動します。

春節前後に中国の街の中を歩くと、家の門や玄関にこのような紙が貼ってあるのを良く見かけます。「福」の字が逆さになっているのです。
中国人にその理由を聞きました。これは、福倒(ころんだ福)と福到(福が来る)とが同じ発音(フータオ)であるため、逆さ福を縁起物として飾っているのだそうです。
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これは2001年1月24日(旧暦1月1日)の北京の地壇公園です。天壇公園は有名ですが、地壇公園はあまり馴染みがないかもしれません。ちょっと脱線して北京の風水について書いておきます。北京は皇帝が住んでいた紫禁城(故宮)を中心に南に天壇公園、北に地壇公園、東に日壇公園、西に月壇公園があります。これらは、紫禁城に対して完全な対称位置ではなく、少しずれています。風水の規則から決められたそうです。
地壇公園は天壇公園ほどの派手さはありませんが、落ち着ける公園です。
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中に入ると縁日の屋台が沢山です。これでも浅草の仲見世ほどは混んでいません。場所が広いからです。
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北京の冬は寒いのですが、雪はあまり降りません。降っても乾燥した雪ですので、雪だるまや雪合戦用の雪玉を作ろうとしても、集めた雪がすぐに砕けてさらさらになってしまいます。この日は珍しく前日に降った雪が積もっています。
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中国では今でも絵や書が人気です。こうして道端にまで展示して客の来るのを待っています。
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これは次の日(旧暦1月2日)の王府井(ワンフーチン)です。王府井というのは北京の最も賑やかな場所で東京の銀座のようなものです。
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デパートも春節の飾りつけをして客の来るのを待っています。
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これは王府井の中でも最大規模のショッピングモール東安市場です。真ん中に見える店は麦当労、すなわち、マクドナルドです。「麦当労」は発音を聞くと「マイダンロウ」としか聞こえず、「マグドナルド」とは程遠い音に思えます。ちなみに、ケンタッキーは肯徳基でケンドゥチーと聞こえます。
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これは王府井から少し行ったところにある瑠璃廟(リュウリーチャン)です。ここもごった返しています。
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いろいろな大道芸も出ています。
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中国の春節は、地方から来ている労働者にとっては里帰りのチャンスです。短くて1週間、長いとひと月近く帰省しています。このため、いろいろなところで仕事や工事が滞ったりしますが、中国人はあまり気にしていないようです。

平遙の思い出 [某月某日@中国]

平遙(ピンヤオ)は、世界遺産にも登録されている城壁都市です。明の時代、洪武3年(1370年)に作られました。周囲を6.2kmの城壁に囲まれています。北京の南西約500kmのところにあります。
私が中国北京に駐在中の1998年10月にこの平遙を訪れる機会がありました。
私と同じ駐在員のKuさんとOuさんという女性の三人で平遥へ行く相談がまとまりました。Ouさんは私の住んでいたマンションの管理部に勤務し、中国在住10年以上で中国語に不自由しません。中国語をしゃべれない者が列車で旅行するのは難しいですが、こういう人が一緒だと心強いものです。金曜日の夜、北京西駅から夜行列車に乗りました。中国で初めて乗った列車、それも寝台車です。“世界の車窓から”にも登場したあの緑色の寝台列車です。コンパートメントの中は2段ベッドが二組向かい合わせにあり、4人部屋。最初は我々3人のほかにもう一人の中国人女性がいましたが、我々の日本語がうるさかったと見えて、車掌に頼んで部屋を替えてもらいました。気楽な3人旅となりました。

朝6時ごろ平遥の街に着きました。高さ10mくらいの城壁に街全体がぐるりと取囲まれています。下の写真が城壁の上です。この城壁を一周すると街全体が見渡せます。
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城壁の上から見た平遙の街並です。この城壁の中には、数百年間の歴史がそのまま缶詰になって残っているようです。
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古い町並みもそのままです。
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遠くには、この街で最も高い建物、市楼、が見えています。
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これが市楼です。
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城壁内と外界との出入り口は、城壁にあけられた東西南北4ヶ所の門だけです。この門を閉じれば、空飛ぶ鳥しか城壁内に出入りできません。レンタル自転車を借りて、3人で街の中を走り回りました。小さな街並なので隅々まで回れます。見張りやぐら、お寺、商店、など昔のままです。清の時代に銀行業務をやっていた店など、歴史的なものがきちんと保存されています。歩いている人々の服装が昔のままなら、まるで明か清の時代へタイムスリップした感じです。土産物屋もありますが、とても観光地とは思えないほど商売気がありません。どれも皆安いし、売り子も観光客ずれしておらず、たいへん感じのよい人たちばかりでした。
これが街で一番の目抜き通りです。
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Ouさんの案内で一軒の駄菓子屋に入りました。ここは平遥で一番の名士の家です。当主の本職は漢方医で、家業は造り酒屋、平遥一の書道家でもあります。Ouさんは以前にもここを訪問しており、顔なじみです。以前のブログ「北京ノスタルジア」でも紹介した、四合院作りの中庭に案内されました。これがその中庭です。棗(なつめ)の木の下で作業しているのが、当家のご主人です。
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ここで出来立ての黄酒を目の前で舟口搾りにしてグラスに受けて飲みました。つまみは、表で売っている駄菓子です。この組み合わせが意外に良く合います。昔のままの四合院作りの中庭で棗の木を眺めながら黄酒を飲んでいると、陶淵明、李白、杜甫といった昔の詩人の気持ちが少し分かるような、幸せな気分になります。

敦煌 [某月某日@中国]

井上靖の「敦煌」という小説を読んで以来、敦煌に対する憧れがありました。とくに、膨大な経典が隠されていたという、莫高窟の第16窟と17窟が興味深いものでした。これは、1900年に道教の道士が莫高窟を調べている時に、煙草の煙が壁のひび割れの中に吸い込まれるのを見て、壁で塞がれていた第16窟と17窟を発見し、大量の経典が日の目を見たのです。井上靖の小説では、ここに経典を隠す経緯を詳細に描写していました。予てより一度見てみたいと思っていました。
2001年10月にその敦煌を訪れる機会がありました。第16窟と17窟も見ることができました。大感激でした。

敦煌空港は、写真のような小さな空港施設のあるこじんまりしたものでした。数十人乗りの小型飛行機のタラップの階段を降りて数十メートル歩くと、空港施設です。
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莫高窟は敦煌市内から南東に約15km行った所にあります。これが莫高窟の入り口です。大仏殿になっています。中には高さ33mの大きな大仏様が祭られています。
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莫高窟の全景は下の写真のような形をしています。山の斜面をくり貫いて洞窟がいくつも作られています。中心に見えるのが上に写真を示した大仏殿です。
洞窟の中の壁画はすべて撮影禁止です。何十もの洞窟があり、その壁に美しい仏像や天女の像がたくさん描かれています。浄土とはこういうものかと思わせる壁画もありました。
第17窟は16窟の中の小部屋になっていました。わずか一坪ほどの狭い空間でした。しかし、ここに膨大な経典が堆く積まれていた状態を想像するだけで感激しました。また、特別料金(60元;約900円)を払って見た57窟の菩薩像にはじっと見とれてしまいました。
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莫高窟から北西に20km(敦煌市内からは南に5km程度)ほど行ったところに、鳴沙山という砂山があります。下の写真のような高さ50-60mの砂山が続いています。歩くとキュッ、キュッという音がする砂です。鳴沙山の沙という字は、細かい砂のことだそうです。ですから、沙が鳴く山という意味で鳴沙山と呼ばれているようです。
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この山はどこからでも登れる訳ではありません。普通に歩いて登ろうとすると砂がこぼれてきて、足が前に進みません。階段が作ってあるところを歩いて登ります。ただし、登ろうとすると、おじさんが飛んできて料金を徴収します。たしか、30元(約450円)だったと思います。
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この鳴沙山のふもとに、月牙泉という泉があります。これだけ砂だらけの地形の中で、泉の水が枯れないで残っているのはたいへん不思議な気がします。この月牙泉の畔には美しい楼閣があります。
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鳴沙山の山頂から月牙泉を見ると、このように泉の周りにだけ緑が生い茂っています。このような場所で見る緑というのは、とても貴重な存在に見えます。
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こうして砂山の上に立つと実に不思議な感覚です。大きな山の頂上ではなく、この程度の山の頂上にいると地球を踏みしめているという感じがあります。
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